日光例幣使街道のルート
<中山道の倉賀野から分岐>−(玉村)-(五料)-(柴)-(木崎)−(太田)-(八木)-(梁田【やなだ】)-(天明【てんみょう】)−(犬伏)-(富田)-(栃木)-(合戦場)−(金崎)-(楡木【にれぎ】)-<壬生通り、つまり日光西街道に合流>このあと鹿沼、今市などを経て日光につながる。
以上、13宿94kmの街道。
日光例幣使街道の意義
幕府と皇室を結ぶ街道
朝廷から例幣使と呼ばれる勅使の一行(約50〜80人)が、毎春、江戸幕府の始祖・徳川家康を祭る日光の東照宮へ通った道である。そのスケジュールは判で押したように規則正しく決まっていた。家康(1616年死去)の命日(4月17日)に行われる東照宮例祭に合わせるべく京都を4月1日に出発、倉賀野までは中山道を経由して14泊15日の道中だった。したがって4月15日に日光に到着した。
例幣使が派遣されることにより、東照宮は権威づけられ江戸幕府の権威そのものまで高められたのである。
奉幣使とは
天皇から直接、授けられた金の幣帛【へいはく】を神前に奉納する役目の公卿のことである。毎年のことだから例幣使と呼ばれた。参議クラスの中堅公卿の中から、3月に選ばれるのだが、希望者が多かったという。理由は道中で莫大な副収入が得られたからである。実は公卿も経済的に困窮していたのだ。ちなみに復路は宇都宮経由で日光街道を江戸に向かい、東海道で京都に帰還した。
なお、この例幣使は1646年から大政奉還の1867年までの221年間、一度も欠かすことなく派遣された。
水戸天狗党が通過した街道
1864年4月、筑波山(茨城県)に挙兵した水戸天狗党は5月末まで、栃木西方の大平山にたてこもった。6月には栃木町を焼き払ったりしたが、11月この街道を西進(梁田〜木崎)したあと、下仁田【しもにた】街道・中山道などを通り攘夷直訴のため京都を目指した。しかし、それは悲劇と苦難の旅そのものであった。
商人や参詣者たちが往来した
栃木からは木材や農産物、また桐生・足利方面からは織物や米などが運ばれた。日光を目指す参詣者も往来し賑わった。
コースガイド
アドバイス
この街道13宿中、最大の目玉は栃木である。北関東第一の商都といわれた蔵の町栃木の散策をメインにした。
交通の便もよくJR両毛線と東武日光線が通じている。天明(佐野)は街道沿いにはJRのみ。太田から境町までは、ほぼ街道沿いに東武伊勢崎線が走るが、これ以西は、本数の少ないバスでしかないので要注意。
計画
- 1日目 栃木〜天明(佐野) [約17km]
- 2日目 太田〜五料 [約21km]
